京都検定対策・桓武天皇について
桓武天皇は、父であり第49代天皇である光仁天皇から新しい皇統が始まったことを理由に、新しい都づくりしました。また、平城京で勢力を伸ばし政治に介入していた仏教勢力から離れることも、目的の1つです。新しい都に選ばれたのは、長岡京。現在の京都府長岡京市・京都府向日市・京都市西区にまたがるような形で位置していました。
しかしここで事件が発生。長岡京への遷都の事業を手掛けていた藤原種継が暗殺されてしまったのです。暗殺の首謀者とされた早良親王は流罪ののちに自害。すると飢饉や疫病の流行、皇族の相次ぐ死去が発生します。早良親王の祟りだと言われ、794年に平安京へ遷都しました。
東北地方での蝦夷による反乱の制圧
桓武天皇の父である光仁天皇の時代、780年に伊治砦麻呂が反乱を起こして以降、蝦夷では大規模な反乱が30年以上にわたって何度も発生しました。そこで桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、武力を用いて反乱を鎮圧することを決定します。坂上田村麻呂は蝦夷の族長を降伏させるほか、鎮守府の移設や志波城の建設などを行い、律令国家の支配領域を拡大させました。
しかし、度重なる戦費の出費は国家にとって大きな痛手です。しかも平安京の整備も同時進行で実施していましたから、国家の負担は膨れ上がる一方でした。第52代の嵯峨天皇の時代になり、810年代の徳丹城の建設が反乱の制圧の最後の事業となります。
軍政と地方制度の改革
軍政の改革では、主に以下の2つを実施しました。
- 軍団と兵士の廃止(東北や九州を除く)
- 群司の子弟のなかでも、志願した者で構成した「建児(けんてい)」が国ごとの治安維持を担当
大陸の大国である唐が衰えて外交面での脅威が減ったことや、負担が重く民衆の逃亡が頻発して兵士が弱体化したことなどが挙げられます。
地方制度の改革では、勘解由使(かげゆし)を設置して国司交代の事務手続きを監督させるほか、税率の軽減も実施しました。主な軽減した税と、税率や内容の変化は以下の通りです。
税 |
軽減前 |
軽減後 |
正丁の雑徭 |
60日 |
30日 |
出挙の利息 |
5割 |
3割 |
班田収授の頻度 |
6年に1回 |
12年に1回 |
※正丁とは、21歳以上60歳以下の健康な成年男子のこと