陰陽道とは?神社との関係・陰陽師の仕事・安倍晴明について解説
ゲームや漫画、映画などの題材で、現代を生きる私たちにも聞き馴染みのある「陰陽道」と「陰陽師」。不思議な術を使い、妖を祓ったり、怪しい出来事を解決したりするイメージを持つ方は多いのではないでしょうか。
しかし現実の陰陽師は、宮廷に仕えたり貴族に雇われたりしながら、物事の吉凶を占う役割を担っていたようです。特に安倍晴明が活躍した頃は、陰陽師の仕事は国の政治を左右するほど重要なものでした。
明治時代に入り、新政府の政策の影響で表舞台から消えることになりましたが、現在も陰陽道の名残は残っています。この記事では、そんな陰陽道・陰陽師について紹介します。
陰陽道・陰陽師について
そもそも、陰陽師が占術を行うときの基になった陰陽道とはどのような思想・学問だったのでしょうか。ここでは陰陽道の発生・伝来・考え方、陰陽師の仕事、現在も残っている陰陽道と関係のある行事について紹介します。
発生と伝来
陰陽道は古代中国で発生し、朝鮮半島を経由して日本に伝わりました。『日本書紀』によると、日本に陰陽道が初めて伝わったのは531年。五行博士の段楊爾(だんように)が朝鮮半島にあった百済という国からやって来たのがきっかけです。
その3年後には段楊爾と交代する形で、同じく五行博士の漢高安茂(あやのこうあんも)も日本を訪れました。推古天皇の時代には、百済の僧・観勒が日本の書生3、4人に陰陽道について教えていたそうです。
陰陽道の教えは次第に国家規模の事業や政治にも反映されるようになり、聖徳太子の冠位十二階や十七条憲法の制定、国史の編纂事業にも取り入れられました。平安時代になると公家の日常生活にまで影響を与えるほど浸透して全盛期を迎え、陰陽師で有名な安倍晴明もこの時代に活躍します。
陰陽道の考え方と陰陽五行説との関係
古代中国では、この世のものはすべて「陰」と「陽」の、相反する2つの要素に分けることができると考えられていました。例えば、月は「陰」で太陽は「陽」、黒は「陰」で白は「陽」という感じです。ただし、正反対な性質を持つ2つの要素は完全に分離しているわけではなく、お互いに影響し合いながらグルグルと循環しているとも解釈されていました。
しかし、時代が下るにつれ問題が発生するようになります。技術や体制の発展によって世の中が複雑化してしまい、「陰」と「陽」の2つだけでは説明がつかない場面が増えてきたのです。
そこで生まれたのが、「木・火・土・金・水」の5つの要素が世界を構築するという考え方の「五行説」。前3世紀〜後3世紀の漢の時代に2つの教えが交わり、「陰陽五行説」が成立しました。
陰陽師はどんな仕事をしていたの?
陰陽師の仕事は国政の手助けや暦の作成、祭祀・お祓いの実施など多岐にわたります。特に国政の手助けでは次のような仕事をしていました。
- 国家規模の災害や怪異が発生したときの原因究明
- 気象や天文の観察
災害や怪異発生の原因究明といっても、実際に現場で捜査するのではなく、占いで原因を解明する役割を担っていました。また、陰陽道では日食・月食・彗星など空の様子が普段と異なる時期は、国のトップが政治に失敗するサインだと解釈するため、常に気象や天文を観察していました。
暦の作成では、それぞれの日にちのマス目に干支・禁忌・吉凶などを書き込み、1年分の暦を毎年天皇や役所に提出します。祭祀・お祓いでは病の退散・安産祈願・呪詛・穢れの払拭などを行いました。祭祀・お祓いには国家規模から個人的なものまであり、貴族の中にはお抱えの陰陽師を雇う人もいたそうです。
現在も陰陽道ゆかりの行事が残っている
明治政府によって陰陽師の活動が大きく制限され、「陰陽師」という職業はあまり耳にしなくなりましたが、現在も陰陽道ゆかりの行事が残っています。有名なものだと、3月3日の上巳の節句、5月5日の端午の節句などの五節句です。陰陽道において奇数は「陽」の数字とされているため、重要な節目の日だといえます。
日本を代表する陰陽師「安倍晴明」ってどんな人?
安倍晴明は921年に生まれ、平安時代中期に活躍した陰陽師です。超人的な逸話のイメージが強く、魔術師のような印象を抱いている人もいるのではないでしょうか。しかし実際は、宮廷に仕えるかなり優秀な官人だったようです。ここでは、安倍晴明の生涯と伝説、晴明ゆかりの晴明神社について解説します。
生涯
清明の系譜ははっきりとしていませんが、記録によると大膳大夫・安倍益材の子、あるいは淡路守・安倍春材の子と伝わっています。当時陰陽師の一大派閥であった、加茂氏の忠行・保憲親子に、陰陽師の仕事で重要な学問である「天文道」を学びました。清明が陰陽師になったのは41歳の頃で、当時としては遅めの出世だといえます。
52歳で天文博士になり、75歳になると天文道で培った計算能力が評価され、国の財政をつかさどる役所の長官に任命されました。重要なポジションを歴任した清明は、天皇家や藤原家の信頼を獲得し、80歳で陰陽師では異例の出世と言える従四位下の位を賜ります。その後も雨乞いの儀式を行うなど陰陽師として活動し、85歳で亡くなりました。
伝説
「安倍清明」と聞くと不思議な現象を起こせる魔術師のようなイメージを持ちやすいですが、生涯を振り返ってみると宮廷の官人として働いていたことがわかりました。現代の会社員と同じように、職場で缶詰めになって仕事をしていたのかもしれませんね。しかし、あまりにも優秀だったため、超人的な伝説がたくさん残っています。
清明神社について
安倍晴明ゆかりの神社である晴明神社。晴明の屋敷が建っていた場所に、晴明が亡くなった2年後の1007年に創建されました。ご利益は「魔除け」と「厄除け」で、陰陽師として活躍していた晴明らしさが伺えます。
もともとの境内はかなり広大でしたが、応仁の乱・豊臣秀吉による都の区画整理・度重なる戦災などの影響で、現在のこぢんまりとした神社になりました。あちこちに五芒星のマークや晴明・陰陽道ゆかりの像が置かれています。6月中旬から初夏にかけて見ごろを迎える、社紋のモチーフになった桔梗の花は必見ですよ。
神社で見られる陰陽道の影響
初詣・縁結び・厄除けなど、現在の私たちの生活にも馴染みのある神社。実は、境内を見渡してみると陰陽道とのつながりを伺えるものがたくさんあります。今回紹介するのは、狛犬と絵馬について。連想ゲームのような感覚で陰陽道と関連付けているのが興味深いポイントです。
狛犬の表情と配置
神社の入り口には、口を開いた「阿形」と口を閉じた「吽形」が、左右一対になるように配置されていますよね。この表情の違いが、陰陽道と関係があると言われています。
「阿」は物事の始まりを表し、「吽」は物事の終わりを表します。これを陰陽道に置き換えると「阿=始=開=陽」、「吽=終=閉=陰」のように連想されるのです。そして陰陽道では、「陰」と「陽」はお互いに影響し合いながら循環すると考えられているため、入り口の左右に阿形と吽形を置くことは、その考え方を表しているといえます。
絵馬に描かれている馬の色
現在は様々な絵柄の絵馬がありますが、昔は赤馬・白馬・黒馬のいずれかを描いたものが主流でした。「なぜ赤・白・黒の馬なのか?」というと、陰陽道の考え方が反映されている方です。
絵馬を使う習慣がなかった時代は、雨乞いや長雨の祈祷の際、神様の乗り物である本物の馬を神社に奉納していました。その際陰陽道の教えの基づいて、雨乞いの祈祷をするときは「雨=水=黒」を連想して黒い馬を、長雨の祈祷をするときは「太陽=火=赤」を連想して赤あるいは白い馬を奉納していたのです。
今はお祈りする目的に合わせて絵馬の柄を使い分けることはほとんどありませんが、一昔前まではその名残が見られたといえるでしょう。
まとめ
- 陰陽道は古代中国で発生し、朝鮮半島を経由して日本に伝わった
- 陰陽師の仕事は政治への助言や暦の作成、祭祀・お祓いの実施など
- 陰陽道の教えは現在の五節句にも反映されている
- 安倍晴明は宮廷に仕える官人だった
- 神社では狛犬や絵馬などに陰陽道の思想が伺える
今回は、陰陽道・安倍晴明・神社と陰陽道のつながりについて紹介しました。陰陽道の考え方は、「陰」「陽」や五行などと関連付けながら、現在も身近な所に残っています。カレンダーや近所の神社にちょっと目を向けて、陰陽道の面影を感じてみてください。